第43回:「りろんぶつりがく」


このシリーズを久しぶりに書くにあたって、
おいらの「りろんぶつりがく」とは何か?を書いてみます。

平仮名で「りろんぶつりがく」としたのは、
理解、納得できなくても正しい「理論物理学」ではなく、
誰でも理解できて、納得できる「りろんぶつりがく」であることを、
目指しているからです。

「物理」とは、読んで字のごとく、
「物」(もの)の「理」(ことわり)を、どう解釈して理解するか?
という事です。

科学を考える場合、先ずは「概念」と「真理」というものを、
正しく理解するというか、
共通の認識を持つ必要があります。

ですが、実は、これが意外と難しく、
自称「科学者」や「専門家」でも、
(書籍や情報を読む限り)
到底、正しく理解しているとは思えない事が殆どです。(^_^;)

先ず、「概念」とは、現実に存在するものではなく、
『同じ認識』として共有すべきものです。

そして、「真理」は、議論の余地がない「正しさ」ですが、
これも、正しく共有できるかはなかなか難しいです。

例えば、簡単な算数は、ある種の「真理」ですが、
数字や演算記号や10進法などは単なる「決め事」です。

ローマ数字で表そうが、漢数字で表そうが、どんな記号を使おうが、
1+2=3という「概念」は『真理』です。

しかし、例えば、3つのリンゴを並べて、
「1+2=3」を説明した場合、
それぞれのリンゴは、形も色も重さも同じではなく、
3個のリンゴは、1個のリンゴの3倍ではありません。

それなら、3つの「原子」ならどうでしょうか?

究極的な最小単位=「同じもの」と考えられる『原子』であっても、
3つの原子があらゆる条件(形、大きさ、質量、相互作用などなど)に対して本当に完全に同じものか?
と言えば、(概念では同じであっても)
それが検証可能か?と言えば、
(無限に正しい計測精度はあり得るか?という意味で)疑問が残ります。

つまり、現実は、
「ある程度の誤差を許容した上で、
 ある範囲に収まる」事を『正しい』(同じ)とするしかありません。

一方、「概念」と「真理」は、
議論の余地なく、全く同じ事を共有できなければなりません。

先ず『時』は、現実的な物理現象ではなく「概念」です。

我々は、絶えず「今」を生きています。
未来も過去も、物理的な現実ではなく「概念」(記憶・記録や予想)です。

一方、計算式で扱う「時間」は、
経過時間や速度などを数値で扱うための「決め事」であり「尺度」(スケール)です。

つまり、現実の概念としての『時』と、数式の『時間』は全く別物です。

この全く別のものを区別せず(できず)に混同するから、
幼稚な「パラドックス」なんて話になるわけです。

次に『速度』ですが、
「時間」と「空間」(距離)から算出される『概念』であり、
完全に「相対的」なものである事は明白です。

「速度」が現実ではなく『概念』だとは解釈しづらいかも知れませんが、
速度は「物理的に存在するモノ」ではなく、
運動を数値で理解(表現する)ための「概念」です。

例えば、宇宙船でこの宇宙の最果てを越えて、
何もない空間まで行ったとします。

いつまで飛行してもどこにも到達せず、
周りには何も見えない(光など何も存在しない)場合、
この時、宇宙船の「速度」は全く意味を持ちません。
(速度という概念が意味を持ちません)

速度が相対的な「概念」である以上、
たとえ「光」であろうと例外とする事はできません。

光を例外としてしまえば、
速度という「概念」自体を否定する事になるので、
その場合の「速度」は、概念としての「速度」ではなく、
単なる「決め事」(スケール)になります。

速度という概念は相対的なので『方向』(符号)が必ずあります。
一般相対性理論で、
「速度の方向によらず時間が縮む」などという説明は、
「速度」という『概念』を完全に無視している事になります。
(向きによらず同じ影響を与えるのは「加速度」です。)

そして、『加速度』(慣性)も速度と時間により算出される『概念』ですが、
これは『重力』と全く同じ性質の「力」です。

「重力」と「時間」は密接に関連しますが、
この場合の「時間」は『運動』です。

この話は、次回にでも、もう少し詳しく書きたいと思います。

【続く】